光を食べる栄養学講座 vol.7

「西洋と東洋の融合~量子論と般若心経」

 

この講座では、食事や健康について、既存の栄養学にはない視点から考えてきましたが、今回は健康の前提である「そもそも人間とは、自分とは何なのか?」について検討していきたいと思います。

その糸口になりそうなのが「西洋と東洋の融合」というキーワードです。西洋科学の世界観は二元論、唯物論であるのに対し、東洋哲学の世界観は一元論。二元論に基盤をおく西洋科学(医学)では、病気は悪、健康は善というように善と悪の対立構造をつくり出しますし、唯物的思考ゆえに、身体を細切れにし、「これ以上分割できない」という最少単位にまで迫りました(いわゆる「素粒子」)。

一方の東洋的な一元論では、病気も自分の一部として受け入れますし、「物心一如」というように、身体と心はひとつと捉えます。

 

私はここ数年、量子論について勉強してきましたが、純粋な好奇心に導かれて情報を求めるうち、いつの間にかこうなっていました。理論の詳細や数式は十分に理解できませんが(私の先生である医師も、何となくしか理解できないそうですから、まあいいか)その世界観はとても刺激的。左脳の理解力だけでは捉えきることができず、右脳の直感がどうしても必要になります。まさに「科学の世界から、西洋と東洋の融合を図るとり組み」とでもいいたくなるようなワクワク感が、量子論にはあります。

科学の左脳的なアプローチで、右脳の世界に迫っていくことは、左脳偏重といわれる現代人には適切な方法なのだと思います。

 

■光は波でもあり、粒子でもある

 

量子論を説明する際、よく引き合いに出されるのは「波でもあり、粒子でもある」という光の性質です。「ふだんは空間的な広がりをもつ『波』として振る舞っているのに、ひとたび人間が観察しようとすると『粒子』として位置を持つようになる」という素粒子の性質は、唯物論的な思考だけでは理解できません。

 

この不思議な現象を、実生活に当てはめて解釈するなら、どんなことがいえるでしょう。「素粒子は人間の意図を感じ取ることができ、人間の意向によって振る舞いを変えている」ということもできますし、「人間の意識によって、波というエネルギーが物質に形を変える。つまりこの世界の本質は物質ではなく、人間の意識やエネルギーの方がより本質に近い」と解釈することもできます。量子力学の生みの親であるマックス・プランクは「意識は物質より根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と述べています。

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現在では、「光は波でもあり、粒子でもある」ことは、何千回もの実験によって確認され、否定しようのない事実となっていますが、アインシュタイン(1879年ー1955年)の時代には、現在ほどの確実に立証されていたわけではありませんでした。しかし、そのアインシュタインも「物質はエネルギーからできている」と考え、反対に「物質はエネルギーに変換できる」、だからこそ「E=mc2」(質量とエネルギーは等価)という有名な式を導き出したわけです。

素粒子の不思議な性質は、「物質」の概念を変えてしまいました。

原子の構造は、原子核の周りを電子がぐるぐる回っている、左の図のようなものだと教わりましたよね。

しかし、素粒子である電子は光と同じ性質を持っています。人間が観察しているならば、粒子として位置を取り、ぐるぐる回っているというのも真実ですが、それ以外の時には波として存在するため、位置を特定できません。右側の図は電子を水色の点で示していますが、実際にはもわっとした雲のような状態なのです。電子はその「雲」全体に、同時に偏在しているのです。

 

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■物質が物質と感じられるのはなぜ?

 

ここで、原子核と分子の大きさと、お互いの距離感についてご紹介したいと思います。

左の図のように、東京駅に直径1メートルのボールを置き、原子核に見立てます。その時分子は赤い円の辺りをぐるぐる回っている、というのが原子と分子の位置関係です。

つまり、物質を構成している原子は、実は中味がスカスカで、ほとんどは「空間」なのです。それなのに、なぜ固体にように感じるかというと、電子はものすごいスピードで回転しているため(もしくは波として激しく振動しているため)、人間にとっては「常にそこにある」ように感じられるからだというのです。

もしこの回転が止まったら(またはゆるやかになったら)、物質は空間に近づいていきます。後でご紹介する『般若心経』の1フレーズ「色即是空、空即是色」との共通点も感じられます。

 

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■東洋哲学に傾倒した物理学者たち

 

量子論の研究が進展し、その不思議な世界が明らかになるにつれ、西洋の科学者たちは東洋哲学から研究のアイデアを得ることが増えたそうです。

 

量子論の育ての親と評され、1922年にノーベル物理学賞を受賞したデンマーク人物理学者ニールス・ボーアは『般若心経』や『易経』に、ドイツ人物理学者のヴェルナー・ハイゼンベルクはインドの詩人であり思想家のラビンドラナート・タゴールに傾倒したといわれています。「シュレーディンガー方程式」で知られるオーストリア人物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーは『ヴェーダンタ哲学』に大きな影響を受けていたといわれています。

左の画像は、ニールス・ボーアがデザインしたボーア家の家紋です。

 

★画像は https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2 さまよりお借りしました★

 

物理学の最先端をいく量子物理学者たちが東洋の哲学に興味を持つようになったのには、こんな背景があります。もし意識から現実が派生しているのだとすれば、脳が意識の源なのではなく、意識が脳という物質を創造していることになります。だとすると、肉体という物質がなくなっても、意識までなくなってしまうことにはならず、死んでも意識は存続することになってしまいます。西洋の唯物論的な思考では受け入れることのできない現実を、量子物理学者たちは、自らの研究によって突きつけられてしまったのです。だとすれば、東洋的な世界観に手がかりを求めたというのも、自然な流れのように思えますよね。位置をもたず、雲のように偏在する電子のありようは、一元論の世界観そのものですから。

これは私の想像ですが、彼らが東洋の右脳的な世界観を受け入れることができたのは、やはり彼らが「天才」であり、左脳と右脳をバランスよく使うことができたからなのではないかと思います。

 

■非二元と般若心経

 

今後、量子論がさらに発展すれば、西洋と東洋の融合という流れがいよいよ本格的になるでしょう。古代には同じ1つのものだったスピリチュアリティと科学や医学。いったんばらばらになってしまいましたが、今また統合しようとしています。この流れは偶然ではなく、この時代に起こるべくして起こっていると思います。二元論、唯物論をベースにした科学は、そのままの枠組みのままではさらなる進歩は望めないところまで来たのだと思います。

 

このような流れを踏まえた上で、今後私たちの文明が向かっていく先について考えるなら、どんな方向性が見えてくるでしょうか。

私は、「非二元」「ノンデュアリティ」といわれる、哲学というか宇宙観のようなものを、地球文明全体で共有していくことだと思っています。

非二元、ノンデュアリティはとてもひとことで言い表すことはできません。それで、手っ取り早く説明したい時は「要するに、般若心経がいわんとしていることです」といって逃げる(!)のが、私の常套手段になっています。

 

般若心境は「観自在菩薩(観音様)が、弟子であるシャーリプトラに宇宙の知恵について話して聞かせる」という形式で、276文字のとても短いお経です。

★画像は http://www.geocities.jp/shikoku888/HannyaSingyou.htm さまよりお借りしました★ 

 

インターネットで検索すると、現代語訳をいくつも見つけることができますが、曹洞宗 圓通閣 澤龍山 少林寺さんのこちらのページがわかりやすいかと思います。

 

https://cms.e.jimdo.com/app/s4978d159a2c391d0/pbeee8ede59be2fdc/?cmsEdit=1

 

また、マインドフルネスでおなじみ、ティク・ナット・ハン師による英語訳も読みやすくておすすめです。

 

"Heart Sutra new English translation"(般若心境 新版英語訳)

https://1gkys61108am2vvslv1ayriu-wpengine.netdna-ssl.com/wp-content/uploads/2014/09/2014-Thich-Nhat-Hanh-New-Heart-Sutra-letter-cc.pdf

 

何度読んでも心が震えます。目に見えるものや感覚できるもの、思考や感情も自分さえ、変化するもののすべてには実体がない。実体がないということは、つまり「空」である。だから「空」とはあらゆる実体のないものだともいえる(色即是空、空即是色)。実体のあるものとは、変化しない、すべてであるところの「空」だけ・・。

量子物理学者たちは、「空」と「分子が雲のように偏在している状態」との間に共通性を見出したのですね。

観音様はこういいます。「生まれることも死ぬこともない。恐怖も不安もない。苦しみもないのだから、苦しみの原因もないし、苦しみがなくなることもない。内的世界さえ存在しない」。つまりな~んにもない、自分すらないのです。

私の解説など気にする必要はありませんので、ぜひご自身でじっくり味わってみたほしいのですが、ひとつだけお話ししておくと、空は「無」のことではなく、すべてである「実在」です。自分などいないけれど、在るは在るのですね。

 

■実生活への落とし込み

 

般若心経のいう「空」は、様々な人や考え方が、様々な言葉で表現しています。リン・マクタガート氏のいう「ゼロポイント・フィールド」然り、量子論における「場の理論」の場も然り、「アカシャ」や「虚空」然り。般若心経のいわんとしていることは、それだけ普遍的だからだと思います。だからこそ、人類全体、地球文明全体でその方向に進んでいける、戻っていくことができると思うのです。

 

私たちは、「私という誰かが、私の人生を経験している」と思って生きていますが、もし私もいないし、人生もないとしたら。私は、大きな開放感の中に投げ出されるように感じるのですが、いかがでしょうか。

「なんにもないのなら、健康を気にして食事にこだわるなんて、意味ないじゃーん!」と思うかもしれません。本当にそうですね。ただ「なんでもいい」という開放感にあって、それでも選びたくなるものがあったとしたら、それがその人にとっての本物、真実なのではないかと思うのです。私にとっては、それがフルーツであり、少食であり、光を食べることです。

 

次回の「光を食べるレシピ」では、フルータリアン講座とこの講座でお話ししてきたことを踏まえた上で、具体的な食事法に落とし込む食生活を考えていきたいと思います。食べものも栄養素も所詮「色」。実体などない・・・のですが、だからこそなおさら愛おしく思えるのは私だけでしょうか。自分なんていないなら、人生なんてどうでもいい・・?いえ、だからこそ、私も愛おしいし、人生を丁寧に生きていこうと思えるのです。この感じ、おわかりいただけるでしょうか。